蕗谷虹児「わたしは なんにも 言へなんだ…」
蕗谷虹児の代表作「花嫁」。右のまぶたからうっすらとこぼれる涙は、花嫁の青春の終わりと母の人生の不幸を重ねたといわれる(新潟県新発田市の蕗谷虹児記念館で)
凛とした花嫁 涙の理由
わたしは なんにも 言へなんだ あの子も
なんにも 言はなんだ ふたりは だまつて 花つんだ。(詩画集「花嫁人形」より)
モダンな洋装に限らず、着物姿であっても女性の背筋は伸び、
大正末期から昭和初期にかけて少女誌の表紙などを飾った
その絵や詩にひかれたのは女性だけではない。日本と縁の深い作家・魯迅は、複数の詩画集から抜粋した作品に訳をつけ中国で出版した。虹児の評伝「夢の宴」の著書がある作家の阿刀田高さん(80)は少年時代、3人の姉の共通の本箱にあった詩画集を愛読し、今も詩を
「萠芽」は、阿刀田さんの姉の一人が大好きだった詩だ。「少し言葉を替えただけで、うまく2人の心境を表現しています」
その短い詩は、<あの子は だまつて 花くれた わたしも だまつて 花やつた わかれは さびしい ものだつた。>で終わる。
別れのさびしさを虹児は知っていた。父は新潟県新発田市内の活版印刷屋の息子。母は湯屋の看板娘。若い2人は駆け落ちして結ばれたが、虹児が12歳の時、苦労続きの母は亡くなった。美しかった母の面影を虹児は終生追い続けた。<きんらんどんすの帯しめながら>で始まる「花嫁人形」の詩が有名だが、その詩には、花嫁衣装を着られなかった母や初恋の娘への思いが込められている。
新発田城の近くの蕗谷虹児記念館に、後に切手にもなった晩年の作品「花嫁」の原画がある。明るい柄の衣装に身を包み、目を閉じ、三三九度の杯を両手で支え持つ花嫁。華やかで切なさは感じられないが、拡大鏡で見ると、ひと筋の涙が
なぜ花嫁は泣くのか。少女の感性を備えた詩人、虹児には、その答えがわかっていたのだろう。(文・関仁巳 写真・青木久雄)
蕗谷虹児(1898~1979) |
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新潟県新発田市、新潟市などで幼少期を過ごし、1913年に上京、日本画の尾竹 |
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